

MUSICAIの主宰と演出をしております、伊藤さやかです。
物心ついた時から、私は「何かをつくる」ことに夢中でした。
物語をつくり、
音をつけ、
踊りをそえ、
ひとりで小さな世界を作っていました。
そして、いい大人になった今も、あの頃と同じように、作ったり歌ったり踊ったりしています。
はじめてちゃんとしたミュージカルを知ったのは、中学生のとき。
アンドリュー・ロイド・ウェバーの『オペラ座の怪人』に出会い、
「これが…これが、本当のミュージカル!!」
と震えました。私の中学校にはミュージカル部がなかったので、友人たちをまきこんでミュージカル同好会を立ち上げ、台本も音楽も自分たちで作り、中学、高校と好き放題やりました。
大学入学後もミュージカル研究会に入ったり、先輩が立ち上げた劇団に出してもらったり。
念願かなっていくつかのオーディションにも受かり、プロとして舞台にたつチャンスにも恵まれました。
けれど、二十歳くらいから、衣装を汚してしまうほどアトピー性皮膚炎が悪化し、
プロとして表に出ることが困難に。
それでもミュージカルがやりやくて、周囲の才能ある仲間を口説き落とし、アマチュアミュージカル劇団ZaNUKAを結成。 既成ミュージカルの版権を買えるほどの予算もなかったので、久しぶりに自分たちで台本も音楽も作りました。いくつものオリジナルミュージカルを作っていく中で、仲間やお客様から学んだのは、
「自分にはできないことを知る」大事さ。
どんなに欧米のミュージカルが好きでも、阿佐ヶ谷の小劇場で日本人の集団がパリのオペラ座を舞台にした華麗なミュージカルを上演するのは、やはり難しいのです。
「自分には出来ないことを知る」のは切ないですが、でも、それによって、ようやく「自分だから出来ること」を考えられるようになったように思います。
しかし、その答えを見出せないまま、ZaNUKAの仲間たちはそれぞれの道を進み、私もまた、ジャズピアニストの水城ゆう氏と出会い、童謡や唱歌をアレンジして歌う仕事を得ました。
童謡のもつ物語性はもちろん、ジャズやポップスやロック、いろんな風にアレンジして歌うというのも、常にいろんなスタイルの音楽で歌わないといけないミュージカル畑の人間に、とっても向いていたように思います。そして【Oeufs(うふ)】というそのユニットで一生懸命、歌に取り組むうちに、自分が喉を酷使して歌っていることに気づきました。私の大好きな英国の歌手やミュージカル俳優たちがやっている、体全体を使う歌い方とは、発声から違うのです。

違うのはわかるけれど、どうしたらいいのか全く分からなかった私は、ロンドンにある音楽学校へ大人留学。
Tech Music Schoolというその音楽学校には、ヨーロッパ中、そして中東や南アジアからも学びに来ていました。
世界中から集まってきた生徒たちと触れ合い、実際に日本人以外の友達を持ってみると、一生懸命、欧米のアーティストをコピーしようとしている自分が恥ずかしく、悔しくなってきたんです。
無事卒業し、日本に帰ってきてからは、金髪のウィッグをかぶってメアリー役をしたり、パーティ演奏の仕事で欧米のポップスばかり歌うことが辛くなってました。以前は楽しくてしょうがなかったはずなのに、欧米の歌手やミュージカル俳優の真似をし、日本人である自分の心と体を必死に欧米の型にはめることを、辛いと感じるように...
さらに辛いのは、自分でやるのは辛いけど、やっぱり英国のミュージカルや音楽が好きだという事実。
「なんで日本人なんかに生まれちゃったんだろ...」
と、考えてもしかたのないことを考えては、絶望的な気持ちになってました。
そんな時、仲間から、「英国ではミュージカルづくりの研究ができる」という話を聞きました。
色んな機関や大学を訪ねているうち、非常にありがたいことにロンドンのミドルセックス大学から奨学金を受けることがかない、同大学大学院の舞台芸術学部へ。
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大学院では全員がまず、演劇をとりまく歴史や哲学、政治、心理学をひととおり学び直します。
そのなかで、自分がずっと抱いてきた欧米への強い憧れは、実は「文化的植民政策」によって、知らないうちに植え付けられたものだったのだと、初めて気づきました。
欧米のミュージカルこそが『正しい』、
欧米の文化のほうが『優れている』と、
マスメディアやエンターテイメントを通して思いこまされていた自分に、愕然としました。
そして、それ以上に驚いたのは、
かつて米国と並んで「文化的植民」をバリバリ行ってきた英国が、いまは文化に優劣をつけず、多様性を大切にする芸術教育に取り組んでいること。

修士号取得後は、パリに拠点をおくマルチリンガル(多言語)演劇のプロジェクト【INSTANT MIX】に参加。
様々な国から招かれたアーティストたちと、パリの地元民に愛される小さな劇場や、ヨーロッパでもトップの演劇学校CNSADでマルチリンガル演劇を上演することで、演劇が人種や文化の壁を超えるためのツールになりうること、そして、日本人であることの強みも知ることができました。
パリでもロンドンでも、日本文化に注目する現地の人々の目を通し、日本の魅力を再発見しました。
もちろん、うわべだけの「日本っぽさ」もヨーロッパでは未だに多く見受けられるので、「日本っぽさ」と「日本らしさ」についても考えるように。
それは、ヨーロッパの演劇メソッドを学べたことと同じくらい、もしくはそれ以上に、私にとって重要な勉強でした。
そして日本へ帰国後、私は改めて思いました。
日本にだって、神楽、能、歌舞伎という、物語と歌と踊りが一体になった舞台芸術があります。
日本人だけでなく、ミュージカル先進国の欧米の人だって「おおっ」となるような新しいミュージカルが日本で生まれても不思議ではないはず!
一人ひとりの身体に宿る物語やリズムを紡ぎ、
それらを重ねたり、
混ぜたりしながら、
唯一無二の表現として舞台上で花ひらかせる...
そんな舞台を作りたくて、今日もがんばっています。